震源地を離れて 〜武蔵村山イオン〜


FM仙台のラジオを聞いてると

あまりのガチさにビックリします。

本当に生きるための情報(水とか携帯の充電とか)ばっかり。



今日から、放送内容が日常に戻ったとか

ラジオで言ってますけど

遠く東京からみると、それでもリアル過ぎて、驚きの放送内容でした。





何を考えても暗くなりますし

かといって

地元の人に有益なことを言えるわけではないので

日常レポート。



自分の分野っぽく

都市論&場所論に移ろうと思います。




武蔵村山市イオンモール

むさし村山ミューに行ってきました。



なんとなく

イオンモールと言うのは

商業施設ではなく

何らかの思想や機能を担うためにつくられた

「都市」のように見えます。

それを写真から追ってみたいと思います。



写真は基本、隠し撮りなので

ピンぼけしまくってます…。





まず外観から…

唐突に、郊外の風景のなかに


イオンが浮かび上がる。



フォト フォト


フォト フォト


駐車場は全部で5200台分あるそうです。





フォト


なかに入ると、いきなり

17歳、好きな場所、イオン

という強烈なキャッチフレーズが!



入り口でフロアガイドを受け取り


中に入ります。

100を楽に越える専門店があるようです。





【食品売り場】



まずは食品売り場。

トップバリュブランドの食品がずいぶん増えました。



フォト フォト


私も前、そんな会社にいたんですけど。

イオンではもはや、食品や洋服さえ、自分たちで作っています。

それを自前の店舗に並べているのです。



フォト


生鮮、畜産関係の売り場では


レシピ提案がよくあります。

店員さんと話をする機会はないと思いますが

スーパーに行くと何気に、いつもこんな提案を受けますね



フォト フォト


フォト フォト


どう感じるかは

人それぞれですが、この店は、外資が入ったSEIYUに近い感覚なのか

かなり無機質、工学的な

商品の並べ方をしているような気がします。

ショッピングを楽しむというか

何か、獲物を刈り取っていくような機械的な印象さえあります。





【ファッション】




イオンモールで最も多いのは

「ファッション」というカテゴリーに入る専門店です。

店はもちろんのこと

ここで目立つのは、華やかに着飾った「ショップ店員」です。

三浦展さんや速水健朗さんの調査では、地方都市では

ショップ店員とキャバクラ嬢が、割りと現実的に

憧れの職業になっているのだとか。

…それもそのはず、地方都市で暮らすことを考えると

公務員か、工場の職員か、どっかでアルバイト

という選択肢がリアルなわけだから

ショップ店員は、かわいいし、憧れになるのは実際だと思う。



フォト フォト


いつの間にか、女子力の提案を受けます。


フォト フォト


フォト フォト


この辺の店は

ショップ店員らしき人が目立ってました。

春休み中なのか、手をつないだ中学生や高校生のカップルが多い。





フォト フォト


フォト フォト


イオンスタイル。

ともかく、スーツがやばいぐらい安い。

最近は、食品や日用品を通り越し、衣類に力を入れている

イオンブランドです。






【映画】



いまや、地方都市には映画館がありません。

あるのは唯一、イオンの中だけ。



フォト フォト


なんか、やたらに

並んでて

何かと思ったら、プリキュアやってました。



フォト


yamayuuriさん、見たくないもん!

プリキュアの映画なんて…、子どもじゃないんだからっ!




【グルメゾーン】



食事をする場所もたくさん。

大きく、フードコートと、専門料理店街に別れます。



フォト フォト フォト


フードコートは、入るのは無料です。

水だけ飲んでる人もいます。

割りと郊外ロードサイドで見るような店が多いですね。

けっこう、騒がしい感じ。



フォト


フォト フォト


フォト フォト


こちらは専門料理店。

本当に何でも揃ってます。

仮に何も買い物をしなくても、食事だけしにイオンに来る人も多そう。





【カルチャー・サービス】



雑貨屋とか、多いです。

内容、被ってんじゃない?って店もけっこうありますが

なぜか飽きません。

工学的な食品売り場はともかく

イオンは「買い物をする場所」というより

時間を消費する場所だと思います。

なので、何も買わずに、けっこうグルグルできるのです。


フォト フォト


フォト フォト


フォト フォト


ゲームセンターと言っても

中学生が楽しめそうなところから、本当の幼児向けまで、いろいろある。



フォト フォト


何か分からなかったら、とりあえず

インフォメーションセンターのお姉さんに聞く。

都市で言うと、役所みたいな存在?



フォト フォト


じつは、イオンと言えど

ものを売るだけではありません。

レッスンをやってる店や、ABCクッキングと言って

親子の料理教室をやってるところもあります。

まさに「消費と文化」を丸抱えしてしまおうという、イオン氏。





【構造・空間・意匠】



ようやく本題。

イオンが単に買い物の場所ではなく

時間消費型の施設であり。

なおかつ、商業施設ではなく、もはや都市だというのは

全体の構造を見ていると感じることです。



フォト フォト


広いので、走り回れます。

疲れたら休む場所もたくさん。植物もある。



フォト フォト


この建物は3階建てですが

とても開放感があります。

店が建ち並び、人が行き交う様子が見えます。

意識して、空中都市を作ったかのようだ…。



フォト フォト


2階、3階は、真ん中が「吹き抜け」のため

まるで道路を挟んだ歩道のように

右端、左端に店舗があります。

途中で、横断できるスペースが設けられています。


フォト フォト


フードコートのテラスから

外を眺めています。

外は物流工場と、パチンコ店、量販店。

典型的な「郊外ロードサイド」の風景です。

イオンにいると気づきませんが、現実にはかなり殺伐とした場所だったりします。





『理想都市・イオンについて』



イオンモール

たいてい、郊外の田園地帯に

唐突に登場してくるか

いわゆる国道沿いのロードサイドに混ざっているか

どちらかのパターンが非常に多く

基本的に車でしか行くことが出来ません。




それでも、上の写真で見たように

イオンモールは地方都市の若者たちにとって

ほぼ間違いなく

街でもっとも魅力的な場所です。

若者だけでなく、大人たちにとっても、もっとも現実的に

ライフラインを支えている場所です。



私が前の仕事で

東北のイオンモールを回っていたとき

秋田の農業高校の女子高生たちが

イオンのなかのスターバックスコーヒーで

楽しく談笑している姿を見ました。

イオンが地元にやってくるとは、「東京にあるような」消費文化の形態を

そのまま田舎に持ち込むことを意味します。



これに対抗するかたちで


中心市街地の衰退や駅前文化を語る方面から

「郊外ファスト風土論」

「大型店規制論」

「イオンが文化を壊す」

といった批判的な声が聞かれる、という構図になっています。





しかし、少し歩けば分かるように

イオンは

「都市のなかに唐突にやってきた大型店」

というよりも

もはや

「何もない田舎町の中に、都市をつくってしまった」

という存在なのです。



田舎のイオンの中には、街全体にあるより多いのではないか?

という数の店が集まり


しかもそれらが、シャッター商店街とは違い

連鎖的に「開いて」並んでいます。

このイオンに行かずして、若者が街の商店街で

回遊する理由はありません。





また、とても面白いのが

イオンのなかでは

子どもたちが「走り回ってもいい」ということです。



普通、駅前のデパートでは

そんなスペースはないですし

どこの店にいっても、周りの目を気にするので

「子どもが騒がないように」

「走り回らないように」

と親が気を遣います。


それが、イオンのような広いスペースでは

むしろ走り回ってください。

と言わんばかりなのです。

しかも凄いのが、イオンモールの床です。

この床は絨毯のように柔らかいので、転んでも大丈夫です。



走ってください、転んでください。

それが、イオンモールの空間です。



なおかつ

どこを走り回っても

車に轢かれることがないし、変質者に連れて行かれることもありません。

放置自転車もなければ、タバコを吸ってるオヤジもいない。

もはや、郊外地や田舎でさえ…

いや、郊外や田舎だからこそ

国道を車が行き交い、どこに行っても

車に気をつけなければ行けませんし


街中では、常に犯罪被害にあう危険があります。



しかし、車がなくて、絨毯で、警備員がいて

空調が利いているイオンは

最も快適な、最も殺菌された場所となっています。





イオンモールを商業施設として捉えると

なんだか、あまり本質をつけない気がします。



そう、たぶん

イオンは都市なんだと思います。



確かに、安心・安全・消費といった

人間の欲望に忠実になり

なおかつ、色彩豊かなデザインと、回遊空間、人々の賑わいを設計する。

これらを追求していくと


結局それは、理想都市のかたちになります。



震災の直後に言うのは

気が引けますが。

既にして「都市」は、我々の目の前にあるので

理想都市をつくるといっても

都市計画家は図面の上にしか都市を描けませんし

私たちもまた、シムシティの上でしか都市を描けないのが普通です。



しかし、そもそも

「都市」は屋外に、1から創造するものと決まっていません。

それならば…と田舎に土地を買い

東京ドーム何個分という敷地の上に

「理想都市」を作ろうとしたのが

イオンではないでしょうか。



その意味において


イオンは「都市設計」「都市デザイン」の会社となっています。



都市計画をやりたい人、理想都市に興味がある人は

役所に入所するんじゃなくて

イオンに入社するのも

本気でありだと思います。

(さすがに、もう郊外店は増えないだろうが)



わたしは今日のイオン巡りで

もはや地方都市の賑わいを復活させるには

古き良き商店街や駅前にこだわるよりも

「イオン的なもの」の精度や思想を

より高めたほうが近道だと思いました。

思想地図のショッピングモーライゼーションが

やはり本当に参考になるのではないか。



『いくつかの批判』


歩いていると

ちょっと不思議にも思えることもあります。



確かに、数多くの専門店が並んでいて

特にファッション関係の店は

とても多いです。



しかし不思議なことに

新宿や渋谷といった「雑踏」にあるような

「周囲の目」というのが

全く感じられないのです。



例えば、新宿や渋谷、原宿にも

服やアクセサリー、美味しそうな食べ物を

売っている店はたくさんありますが

あれは

「かっこいい服を着てる人」


「美味しそうなクレープを食べてる人」を

目の前で目撃することによって



なんか、あたしも欲しいな、食べたいな



とか思うものではないでしょうか。

人間が「意図せずに」お互いに影響を与え合っていて

都市が存在していると。



それが、イオンのような

だだっ広い空間に、店だけを並べられても

その間に「人」があまり介在しないのです。



誰かを見て

「あ、この店にいかなきゃ!」とか思わない。



ただ単純に


自分と商品(あるいはショップ店員)が

そのままダイレクトに繋がっているだけであり

あれはやはり、都市的な消費と

微妙に異なっているような気がするのです。



うまく言えませんが

その辺の空虚さに、あえて自覚的になり

これを越える仕組みや設計を、イオンが生み出すことを願います。





以上は、「空間」に関する

レポートのみなので。



もうちょっと人間的な、精神的な部分は

割愛します。

本当は、イオンとリア充問題は

とても深い関係があると思いますが…

中村うさぎから、『F』へ

おんなのこって なんでできてる?
おんなのこって なんでできてる?

おさとうと スパイス
すてきななにもかも
そんなものでできてるよ (マザー・グース

12月5日の文フリ以降
twitterのTL(私のね)を最も賑わしていたのは
東京学芸大学・現代文化研究会の『F』の
内容討論です。


いきなり、girl特集「ジェンダー論はガールに届くのか」
が、テーマですから
どっかーん!って感じです。破壊力あるよ。


内容も大充実であり
(特に半田さんの綿谷りさの分析が鋭かった)
これで500円か!?と思える納得の良書です。


いまからでも中野タコシェで買えるようですし
twitterで@すれば、応答もいただけるので
興味がある人、「ガール」と聞くと胸熱になる人は
是非、買ってみてください。




今日は共同討議
ジェンダー論は「ガール」に届くのか。
に対する私見を掲載させていただきます。


毒にも薬にもならないコメントですが
『F』のような良い手作り本を
1人でも多くの人が手に取るきっかけになればと思うので
チラ裏でなく、ここに残しておきます。




まず共同討議の内容を
「誤解を恐れず」レビューし(笑
その後に私見に移ります。


前半の討議では千田、矢野の両氏を中心に
いわゆるジェンダー論の歴史と
女性の「実存」との関係が語られます。


ジェンダー理論は
悪しき近代性への批判・反抗から出発しており
男性中心の社会から、女性の解放を目指すものとして
男性/女性の二項対立から勃興している。


ところが、80年代から90年代にかけ
男性性、女性性という
二項対立が無化したのではないか。
ジェンダーは、当の女性たちの「実存」と離れたところで
言説として消費されたのではないか。(退潮)


しかし、70年代は違うと言えないか。
全共闘運動からも分かるように
女性は周縁的な位置(ハウスキーパー)におり
70年代のフェミニズム運動とは
そうした「ポスト全共闘運動」と「実存」の臭いがある。
それが80年代以降、フェミニズムが理論的な水準に
どんどん抽象化され、女性自身の実存と
離れていったのではないか。


などなど。




そして、肝心の「ガール」が出てくるのは
討議の中盤以降です。
ポイントは、鈴木氏の発言です。
非常におもしろいというか、本質だと思うので
長いですが、引用します。


鈴木:

言説に終わっちゃうとか
現代はジェンダーが機能しないとか
そういう視座があっても
とりあえず「解放はされない」のが現実だとしたときに
現実に、現場で、女性である人はどうすればいいのか。


男の目とか関係なく自分がかわいくなるんだ
みたいな方向になってしまいますよね。
それは本当にそうしたくてしているより
「囲い込みの構造は取れない」からこそ
じゃあその中にいる人が生きていくためには
もうその構造から逃げられないんだったら
死ぬか、そこでどうにか生きていくしかない。


そこで生きていくとしたら
「生きることを肯定する」しかない。


=かわいいっていうものを
自分が求めているんだっていう曲解を
自分の意志に同化させていくしかない。




千田:

「生き延びる戦略」としては
非常によく分かる話です。




鈴木氏がいう、この「囲い込みの中での自己肯定」は
90年代あるいは00年代における
今日的なテーマだと言えます。
なので、大切です。


以後、後半はこの発言をベースに
議論が進んでいき
最終的に「ガール」という
ほわっとしたよく分かんない「明るさ」という
希望を導くに至ります。


誤解を恐れないレビューでございました…(笑




それを受け、個人的な感想を述べます。
これを読んだときに
真っ先に思い出したのが
中村うさぎのエッセイの数々と
奥田英朗の『ガール』という小説です。


思い切り簡素化すると
鈴木氏がいう「曲解」を、実存の問題と密結合させ
そこに激しく反発し
ガチで「女性」を引き受けることに苦しんだのが
中村うさぎであり
共同討議の結論のように「ガール」と「明るさ」を
ふわっと結合させた上で
肯定しているのが、奥田英朗の『ガール』ではないかと思うのです。
鈴木氏の引用や、討議の最後に出てくる「ガール」の希望は
奥田英朗の想像力と近いはずです。




しかし、「あえて」
無視したくないのが
曲解を自分と同化させまいとする
中村うさぎのほうなのです。


わたしは、この『F』をとてもスムーズに
気持ちよく読み切りました。
中村うさぎのエッセイを読むときのような
「男の立場からの苛立ち」みたいなのが
なかったのです。
それで…
読み終わって、ようやく気づいたことは


「そうか、この本は!」
「女性」を論じる本ではなくて
「ガール」の特集だったのか!


ということです。




つまり、「ガール」を討議する限りにおいては
鈴木氏がいう「ガール」や奥田英朗が書いた『ガール』に
われわれは軟着地し
希望と合意を見出すことができます。


ところが、中村うさぎ的に
「ガール」ではない、「ガール」になれない自分を意識し
生物としての「女性」を考え始めると
たぶん、こうはいかないだろうと思います。


もっと細々とした、リアルな現実を考えないと
「女性」(あるいは男性)を討議できない
ということになると思うのです。




そう考えたとき
前半で千田氏や矢野氏が言っていることが
思い出されます。


ジェンダーの射程はどこまでなのか?
ジェンダーは「女性」を救っても「わたし」は救えない。


という話に、戻されざるを得ない。




「ガール」に緩やかな希望と合意を
探すことはできるのに
そこから先の「女性」を語ることに
微妙な躊躇があり、その複雑性に触れたくないと思ってしまう。
中村うさぎみたいな女性に怒られそうじゃん)
その辺りに難しさがあります。


それでも「誰か」が率先して
それを語らねばならず
その「誰か」っていうのは
女性だけじゃいけないんだろうな、とイメージするのです。




今回はそんなあたりで
思考ストップしました。


が、『F』を読んだおかげで
思考を巡らすことができました。
ガチネタ良書なので、おすすめです。




ちなみに現代文化研究会は
『F』を過去6回、出版しています。
1回目から順に


『F』創刊号
『F』音楽特集
『F』漫画特集
『F』ゼロ年代の小説
『F』映画特集
『F』暴力特集


そして今回の『F』ガール特集は7号目だそうです。
いまから8号が楽しみですね。

ゼミ: 現代文化研究会公式BLOG

中村うさぎ、その不思議な魅力

あえて連続引用↓


だってさー、知性やら才能に恵まれた男に限って
プライド高いだけの小心者だったり
自分が自分で見えてない愚か者だったりするんだよ。
一番、始末に負えない。
なぜなら、己の知性を活用することなく
勝手に腐っていってしまうからだ。



女ってのは、やれ太ってるだの、脚の形が悪いだの
ブスだの、服のセンスが悪いだの
男に比べていろんなことで劣等感を持たされる。
この上「部屋をきちんと片づけろ」だの「仕事もきちんとこなせ」だの言われちゃ
我々はどこで自己肯定すればいいのだ。
せめて「働く女は家が汚くてもよし!」、「専業主婦は外で働く能力がなくてよし!」
とか、その役割や能力に応じたOKサインを出してくれないと
女たちはもう壊れていくしかないではないか。
世間は女たちに多くを求めすぎる。
しかも、女たちを縛っているのは、男たちではない。
同じ女同士で足を引っ張り合っているのである。



特別な人間になりたい…、という思いが
私を苦しめる。
もっともっと賢く、美しく、誰よりも特別な人間になりたい。
この世の中でたった一人の私が、広い世間では特別でも何でもない
凡庸な人間の1人であるという事実が、私には腹立たしい。


花も実もない人生だけど
中村 うさぎ
角川書店
売り上げランキング: 1036619


中村うさぎと言えば
買い物依存症の人だとか、整形の人だとか
思われている気がしますが


「男」の実像・虚像と
「女」の実像・虚像と
「自己承認」の実像・虚像。


という極めてシンプルなことをベースに
言論活動を行っている人だと思います。



中村うさぎのエッセイは
男性目線で読むと
けっこう腹立たしいものが多いです。


基本的に、男たちが反論不可能なことを
たくさん書いているからです。


誤解を恐れずに言えば
男たちは、女性が言うことに「ガチ反論」できない
生き物です。
反論すればするだけ、彼女の言葉でいうと
「腐ってる」っていう話になってしまい、自分でもそれを自覚してるから。


男の情けなさを突かれたり、女はこんなに大変なのに
男はどうのこうのと言われると
もう、どうしようもないわけです。
それにガチ反論すること自体が、タブーなんだから。


しかし男性というよりも、中村うさぎ
ある種の女性にとっても
腹立たしいエッセイを書いてると思います。
むしろ、こっちのほうに
ムッときてる女性読者は多そうだけどね…。



男も女もイヤなら読まなきゃいいだろ、って話ですが
これがまた面白いから読むんです。
そこに不思議な魅力があります。


それはなぜでしょう?


性と自己承認という
あまりにベタすぎるテーマを
ここまで赤裸々にしてくれる人が
他にいないからでしょうか。


そりゃ分かってるけど
言わないことにしてるんだよ、考えないことにしてるんだよ
っていうテーマに対し
ズカズカ切り込んでくれるからでしょうか?
しかも極めて論理的に…。



我々は中村うさぎを読むことで
どっか遠くに封じ込めた自分を
呼び戻しているのかもしれません。


ああ、本当はこれ
俺も(私も)思ってたんだよ!
でも自分では絶対に言えないことなんだよ!
っていう感じなんだろうか。



しかし、中村うさぎとは違う
性や自己承認の捉え方もある気がします。
それが東京学芸大の現代文化研究会の『F』です。

これも順次、紹介します。

安藤元雄「まちづくり論」 

安藤元雄氏が
こう書いています↓


わずか三十坪なり五十坪のささやかな土地が
ただそれだけで暮らしを支える
砦になってくれるなどと思う方が間違いで
本当はその土地がどういう位置と環境にあるか
つまり、その土地の周辺が広い範囲にわたって
どうなっているか、が問題なのだ。(要約)


住民は住民にとって
互いに環境である。(引用)


新・区画整理対策のすべて

自治体研究社
売り上げランキング: 445269


いまから10年以上前に書かれた本ですが
今日に対応しているばかりか
20年、30年後にも
生きる言説が多く載っています。


この本は、区画整理そのものを否定したり
土地所有者(直接的利用者)が
役所や大地主に対峙するための
戦術論に終わるものではありません。


だからこそ
「20年後、30年後」が口癖の
わたしのような人間でも、手に取ってしまいます。


この本には安藤元雄氏の力強い言葉が
たくさん出てくるわけですが
都留重人氏の地域ごとの環境整備計画(p72)の引用も秀逸です。
こういう話をする人が、30年も40年も前にいたことに驚きます。


これらの人々の考えに触れると
「実装」という言葉を
リアルに感じることが出来ます。

安藤氏、都留氏は何十年も前から
すでに新しい「まち」の姿をイメージしていました。
2010年のいまでさえ
色褪せないイメージです。

彼らに限らず、さらに歴史を遡れば
やはりそういう人物はいたでしょうし
外国にも数々の思想家がいます。



ところが、思想や理想としてそれらを構想することと
社会の中に仕組みとして「実装」できることは
イコールではありませんでした。


しかし、今であれば
あるいは20年後、30年後であれば
安藤氏や都留氏の思想を
社会の中に、「まちづくり」のなかに
「実装」することが可能なはずです。



それは時代が優れているからではなく
民主主義が進んだからでもなく
情報技術の発展が
我々のコミュニケーションのあり方、環境認識を
変えてくれたからではないでしょうか。



我々の世代としては
そうした先人の思想を大切にしながら
実際にどう「実装」して、新しい社会を築いていくのかを
主に議論すべきなのかもしれません。

メガネッシュと呼ばれた男

190センチを越え、140キロの速球を投げる
中学3年生がテレビにでていて
「こいつすげえな、どこに行くのかな」
と思ってたら
宮城県東北高校に進学します」
とか言ってて、食卓が静かになりました。

うちの母が「終わったね。彼は顔もかっこいいし
あんたはメガネだから負けだね」って。

矢崎良一らの『聖地への疾走』で
東北高校OBの真壁選手、横田選手のエピソード
大沼、伊藤篤、采尾、家弓、若生氏など
懐かしの名前がでてきます。

真壁選手の高校を卒業してからの苦悩はリアルだったし
横田選手に至っては
プロ野球選手の夢を寸前で手放した
父親、あるいは母親との関係が詳細に描かれています。
いい環境で野球をするために、転校して行く(岩切中→八木山中)って、凄い発想です。

非常に面白い内容でしたが
ダルビッシュ「と」セットで語られ続けたことは
彼らの高校時代、もしくはその後の野球人生に対し
プラスばかりではなかったでしょう。

松坂世代」においては
それがチームや県境を越え、全国的に松坂大輔「と」その他
という構造になってますが
もし、ダルビッシュらの東北が甲子園でも頂点に立っていれば
彼らはまとめて「ダルビッシュ世代」だったのでしょうか。


つい先月、神宮球場まで
センバツに出場する東北高校を見に行きました。
非常にねばり強いチームで
152キロ右腕の釜田を擁する金沢を下した試合です。

確かにいいチームだと思いましたが
真壁クラスの投手がいればエースで使われるだろうし
横田、大沼、家弓、伊藤篤らがいれば
4番を打っているだろうなと思いました。

やはりダルビッシュを中心とした
2004年チームは最強メンバーの集合体だったのでしょう。

それでも、そういうチームが
今のチームよりも「勝てるのか」は分かりませんから
組織って不思議だなと思うわけです。


ちなみにこの本には
出ていないことですが
仙台育英の休眠によって、強力選手が集まったのは
東北高校だけではありません。

私学3強の一角・東陵もまた
このときは本当に強かった。

エースは村田一中で、真壁を押し退け
背番号1をつけていた佐藤佑太。
真壁投手と同じ右横手投げから145キロ近い
ストレートを投げていました。
「島影アイス」に関係あるご家庭だという噂の
島影龍馬(現かずさマジック)が
このときの東陵で4番を打っていました。

これらの仙台近郊からの野球留学組に加え
気仙沼の「海の男たち」が融合した東陵は強かった。
ストップ・ザ・東北の1番手と見られましたが
勝戦を前に、ノーシードの利府に
まさかの敗退。残念でございました。


しかし実質、あのとき宮城県内で
東北を止められるチームは存在しなかったと思います。
仙台育英がいても無理だったでしょう。

ダルビッシュ等を打てないのは
もちろんですが
とくに家弓、大沼、横田、伊藤あたりの打球が
殺人的な速さで
ファースト、サードあたりを守っている相手選手が
本当にかわいそうな感じだったから…。

ゴロを体で止めろとか
前進守備でバックホームしろとか
ちょっと無理があった。


最近の東北や育英は
公立校ともガチ感たっぷりに競り合ってますが
何年かに1度でいいから
すべてを「その他」にしてしまう、あのときの東北みたいなチームを
見たいような気もします。

高校野球のチームでは、あのときの東北高校
大阪で見た大阪桐蔭の打球音が
一番やばかった気がします。
(ちなみにそのときの大阪桐蔭は、夏の甲子園に行けなかった)