中村うさぎから、『F』へ

おんなのこって なんでできてる?
おんなのこって なんでできてる?

おさとうと スパイス
すてきななにもかも
そんなものでできてるよ (マザー・グース

12月5日の文フリ以降
twitterのTL(私のね)を最も賑わしていたのは
東京学芸大学・現代文化研究会の『F』の
内容討論です。


いきなり、girl特集「ジェンダー論はガールに届くのか」
が、テーマですから
どっかーん!って感じです。破壊力あるよ。


内容も大充実であり
(特に半田さんの綿谷りさの分析が鋭かった)
これで500円か!?と思える納得の良書です。


いまからでも中野タコシェで買えるようですし
twitterで@すれば、応答もいただけるので
興味がある人、「ガール」と聞くと胸熱になる人は
是非、買ってみてください。




今日は共同討議
ジェンダー論は「ガール」に届くのか。
に対する私見を掲載させていただきます。


毒にも薬にもならないコメントですが
『F』のような良い手作り本を
1人でも多くの人が手に取るきっかけになればと思うので
チラ裏でなく、ここに残しておきます。




まず共同討議の内容を
「誤解を恐れず」レビューし(笑
その後に私見に移ります。


前半の討議では千田、矢野の両氏を中心に
いわゆるジェンダー論の歴史と
女性の「実存」との関係が語られます。


ジェンダー理論は
悪しき近代性への批判・反抗から出発しており
男性中心の社会から、女性の解放を目指すものとして
男性/女性の二項対立から勃興している。


ところが、80年代から90年代にかけ
男性性、女性性という
二項対立が無化したのではないか。
ジェンダーは、当の女性たちの「実存」と離れたところで
言説として消費されたのではないか。(退潮)


しかし、70年代は違うと言えないか。
全共闘運動からも分かるように
女性は周縁的な位置(ハウスキーパー)におり
70年代のフェミニズム運動とは
そうした「ポスト全共闘運動」と「実存」の臭いがある。
それが80年代以降、フェミニズムが理論的な水準に
どんどん抽象化され、女性自身の実存と
離れていったのではないか。


などなど。




そして、肝心の「ガール」が出てくるのは
討議の中盤以降です。
ポイントは、鈴木氏の発言です。
非常におもしろいというか、本質だと思うので
長いですが、引用します。


鈴木:

言説に終わっちゃうとか
現代はジェンダーが機能しないとか
そういう視座があっても
とりあえず「解放はされない」のが現実だとしたときに
現実に、現場で、女性である人はどうすればいいのか。


男の目とか関係なく自分がかわいくなるんだ
みたいな方向になってしまいますよね。
それは本当にそうしたくてしているより
「囲い込みの構造は取れない」からこそ
じゃあその中にいる人が生きていくためには
もうその構造から逃げられないんだったら
死ぬか、そこでどうにか生きていくしかない。


そこで生きていくとしたら
「生きることを肯定する」しかない。


=かわいいっていうものを
自分が求めているんだっていう曲解を
自分の意志に同化させていくしかない。




千田:

「生き延びる戦略」としては
非常によく分かる話です。




鈴木氏がいう、この「囲い込みの中での自己肯定」は
90年代あるいは00年代における
今日的なテーマだと言えます。
なので、大切です。


以後、後半はこの発言をベースに
議論が進んでいき
最終的に「ガール」という
ほわっとしたよく分かんない「明るさ」という
希望を導くに至ります。


誤解を恐れないレビューでございました…(笑




それを受け、個人的な感想を述べます。
これを読んだときに
真っ先に思い出したのが
中村うさぎのエッセイの数々と
奥田英朗の『ガール』という小説です。


思い切り簡素化すると
鈴木氏がいう「曲解」を、実存の問題と密結合させ
そこに激しく反発し
ガチで「女性」を引き受けることに苦しんだのが
中村うさぎであり
共同討議の結論のように「ガール」と「明るさ」を
ふわっと結合させた上で
肯定しているのが、奥田英朗の『ガール』ではないかと思うのです。
鈴木氏の引用や、討議の最後に出てくる「ガール」の希望は
奥田英朗の想像力と近いはずです。




しかし、「あえて」
無視したくないのが
曲解を自分と同化させまいとする
中村うさぎのほうなのです。


わたしは、この『F』をとてもスムーズに
気持ちよく読み切りました。
中村うさぎのエッセイを読むときのような
「男の立場からの苛立ち」みたいなのが
なかったのです。
それで…
読み終わって、ようやく気づいたことは


「そうか、この本は!」
「女性」を論じる本ではなくて
「ガール」の特集だったのか!


ということです。




つまり、「ガール」を討議する限りにおいては
鈴木氏がいう「ガール」や奥田英朗が書いた『ガール』に
われわれは軟着地し
希望と合意を見出すことができます。


ところが、中村うさぎ的に
「ガール」ではない、「ガール」になれない自分を意識し
生物としての「女性」を考え始めると
たぶん、こうはいかないだろうと思います。


もっと細々とした、リアルな現実を考えないと
「女性」(あるいは男性)を討議できない
ということになると思うのです。




そう考えたとき
前半で千田氏や矢野氏が言っていることが
思い出されます。


ジェンダーの射程はどこまでなのか?
ジェンダーは「女性」を救っても「わたし」は救えない。


という話に、戻されざるを得ない。




「ガール」に緩やかな希望と合意を
探すことはできるのに
そこから先の「女性」を語ることに
微妙な躊躇があり、その複雑性に触れたくないと思ってしまう。
中村うさぎみたいな女性に怒られそうじゃん)
その辺りに難しさがあります。


それでも「誰か」が率先して
それを語らねばならず
その「誰か」っていうのは
女性だけじゃいけないんだろうな、とイメージするのです。




今回はそんなあたりで
思考ストップしました。


が、『F』を読んだおかげで
思考を巡らすことができました。
ガチネタ良書なので、おすすめです。




ちなみに現代文化研究会は
『F』を過去6回、出版しています。
1回目から順に


『F』創刊号
『F』音楽特集
『F』漫画特集
『F』ゼロ年代の小説
『F』映画特集
『F』暴力特集


そして今回の『F』ガール特集は7号目だそうです。
いまから8号が楽しみですね。

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